『カッコーの巣の上で』朗読作品

 
カッコーの巣の上で』の朗読 One Flew Over the Cuckoo's Nest by Ken Kesey Read by Michael Moriarty をやっと聴き終えました。

これ、もしかすると映画よりすごいんじゃない?という気がしています。180分間、モリアーティが一人で朗読しているわけですが、読んでいるというより完全に演じています。人物の一人ひとりにはっきりした声音と、口調と、訛りがあり、それぞれが生き生きと喋ったり、争ったり、泣いたり嘆願したりする。まさに七色の声。

主な登場人物を上げると:
ランドール・マクマーフィ: 体じゅう刺青と赤い毛に覆われた粗野なアイリッシュ男。腹の底から響く大声で喋り、笑い、悪態をつきます。
“チーフ”・ブロムデン: この物語の語り手。インディアンと白人の混血の大男。まわりから聾唖だと思われているけれど、実際には聞こえているし話すこともできる。
デイル・ハーディング: 患者たちのもう一人のリーダー、文学に精通している教養人。
ビリー・ビビット: 繊細なマザコンの若者、ひどい吃音がある。
ラチェッド婦長: お人形のような容貌の下に恐ろしい正体を隠している。いつも適切な言葉遣いと石のように冷たい口調を崩さない。
黒人の介護人たち: ラチェッドの憎しみを体現する道具。あまりによく訓練されていて、彼女は彼らに指示を与える必要すらない。
スピービー医師: 基本的に善人で、ラチェッド婦長にちょっとだけ反抗する。

これらを二人以上の会話、例えば「マクマーフィとハーディングがビリーを仲介役に使って話する」とか、「ラチェッドとマクマーフィがグループミーティングで対決」のような場面で次々と演じ分けています。

しろうとには離れ業としか思えません。同じ人物だけをまとめて録音して後から繋ぎ合わせてあるのかとも思いましたが、そんな不自然な感じはない。本当に台詞ごとにキャラを切り替えながら読んでいるように聞こえます。

もしかするとじっと座って読んでいるんじゃなく、舞台にいる時のようにマイクを装着して動きながら演じてるのかな、という気もします。ラリー・コーエン監督が『Q』のコメンタリーで語っていた、「彼は映画を撮っているときも、他人の役を全部頭の中で演じているんだ」という話を思い出したもので。

同じキャラクターの中でも変遷があります。ラチェッド婦長はどんな場面でも冷静な口調を保っていますが、マクマーフィによって自分の支配が根底からコケにされたと知ったときにはその自制が崩れ、仮面の下から正体が覗きます。このときの声はまるで『ホロコースト』のナチス将校のよう。

地の部分も登場人物のひとり“チーフ”による語りですから聞き逃せません。彼は物語を通して一番大きく変化するキャラクターです。外界に反応せず薬漬けの霧の中に沈んでいた“チーフ”が次第に自分を取り戻していくさまがありありと表現されています。

最初のうち“チーフ”の語りにはいろんな妄想が混じっています。たとえば、病棟の壁にはいろんな機械が仕込まれていて、ラチェッド婦長によって操作されている。それらの機械もラチェッドも、実は世界を支配している“コンバイン”の一部にすぎない。この語には世の中のいろんな権威が合体した「複合体」という概念と、大きな騒音をたてて作物の列をなぎ倒していく刈取機のイメージの両方がこめられていると思います。“チーフ”はいつもその機械に怯えて暮らしている。

それを反映して、朗読も非常に緊張した早口で始まります。しかし物語が進んでマクマーフィと関わるにつれ、彼の語り口は落ち着いていき、正気の人間と変わりなくなってくる。また“チーフ”はマクマーフィからガムを貰って以来、現実に話すようにもなります。最初の "Thank you," という台詞は、喉が錆びついていてうまく発せられませんが、台詞はだんだんと滑らかになり、最終章のパーティの場面では酔っ払って大笑いしています。

ちなみに原作には“チーフ”がマクマーフィと一緒に電気ショック療法を受ける場面があります。モリアーティ自身がロンドン留学時代に変調をきたして入院させられ電気ショックを施されたことは彼が自分であちこちに書いているので、ここをどう読んでいるのか緊張する思いでしたが、幸いなことに(?)朗読では省略されていて少しほっとしました。

・・・・・ほかの俳優による朗読というものを聴いたことがなくてこれが特に優れているかどうかはわかりませんが、自分にとってはモリアーティの一人芝居を堪能できる作品でした!