『カッコーの巣の上で』とラチェッド婦長

  

先日注文した『カッコーの巣の上で』のテープはまだ届いてなく、原作の方は読んでる途中なんですが、ジャック・ニコルスン主演の映画をあらためて観たのと、ラチェッド婦長のキャラクターについて思うところがあり、とりとめもなく書いてみます。

ラチェッドは、主人公マクマーフィが入院してくる精神病棟の看護婦長です。その名前は "wretched" (人でなしの、卑劣な、不快な・・・)を連想させる。原作では見えないワイヤを病院中に張り巡らせ、すべての患者とスタッフ(医者を含む)を抑圧し、機械のようにコントロールする恐ろしい存在。(原作は入院患者のひとり“チーフ”による語りの形をとっているので「見えないワイヤ」などの独特な表現がたくさん出てきます。)

映画ではやや様子が異なっていて、彼女は善意から行動し、患者たちの保護者として彼らの幸せを願っているように見えます。しかしやっていることは結局同じで、社会の「壊れた部品」である患者たちを「調整」「修理」し、彼女の考える秩序に従わせることを至上命題としている。原作より悪意がない分、よけいに恐ろしいともいえます。

そこへやってきたマクマーフィは、実は正気の人物。弱者である他の入院患者たちと違い、彼女の機械、彼女の秩序に挑戦し、壊そうとする。それに対しラチェッドはマクマーフィをあくまでも患者の一人として扱い、なんとしても自分に従わせ屈服させようとし、そして成功する。野性的で健康だったマクマーフィは彼女の網にからめ取られ、ついにはロボトミーによって廃人同様にされる。

男たちを支配下におき、無力化する婦長(ビッグ・ナース)。いってみればこの女性は「息子を去勢する母」、グレート・マザーのイメージを持っているのです。

そこで。マイケル・モリアーティは何度か、ジャネット・リノ長官をこのラチェッド婦長に例えています。ブログの記事に映画のスクリーンショットを貼りつけてたり、REELTALKの初回出演でもそのような意味の発言をしている。司法長官に、ラチェッド婦長=恐ろしい太母の姿を投影しているようなのです。ワシントンのホテルでの会合の間、テーブルの向こうに座ったメデューサに睨まれてなすすべもなかったと。

1993年の会合のとき、彼の心には『カッコーの巣の上で』の朗読作品(1987)でラチェッドが焼きついていたことがどう影響したのか気になるところです。さらには、もし時の司法長官が女性でなかったら、あの出会いがそれほど破壊的な効果をもたらしたかどうか、と考えたくなります。

そういえば、ベン・ストーンも支配的な女性には必要以上に反発していました。1-7「執念の追及」の娼館マダム、1-10「愛の虜」の女王様、4-5「葬られた真実」の大富豪夫人。彼女らはみな頭が良く、金や力でストーンを屈服させようとする点で共通しています。この「女に支配される」ということが彼の恐怖のツボであるらしく、ちょっとヒステリックなまでに反撃しようとする。まるで、男としてのアイデンティティの危機といわんばかりに。

面白いのはストーンが好きな女性も同じく頭が良いタイプなことです。シャンバラ・グリーンもストーンと侃々諤々とやりあいますが、彼女は対等に張り合おうとするだけで上から抑えつけようとはしていない。そこが違いなのかもしれません。



映画についてのトリビア: 1975年作品、監督は『アマデウス』のミロシュ・フォアマン。プロデューサー、マイケル・ダグラスのコメンタリーによると、マクマーフィ役のキャスティング段階ではジーン・ハックマンマーロン・ブランドバート・レイノルズなどが候補に挙がったがうまくいかず。ジャック・ニコルスンはそれまで『イージー・ライダー』(1969)などで知られていて、それほど役に合ったイメージではなかったらしい。が、『さらば冬のかもめ』(1973年、モリアーティが端役で出演している)のハル・アシュビー監督が彼を推したのだそうです。制作陣はこれを観てニコルスンの実力に納得したらしい。冬のかもめについて私は「やり場のないエネルギーがオーラとなって立ちこめるようなニコルスンがいい」と思っていたので、この話を知って嬉しかったです。