『ペイルライダー』

 
クリント・イーストウッド監督・主演の1985年作品。さすがにメジャー作品なのでネット上にはいろいろレビューがあり、中には非常に面白いものもあります。が、みなイーストウッドの役、プリーチャーについての話ばかり。。。しかし、私はひいき目もあって弱そうなヒゲ面のハル・バレット(マイケル・モリアーティ)こそこの映画のヒーローだろうと信じているので、そっち視点で観てみましょう。


山間の渓流のそばで砂金を手掘りする人々(squatters)。村ともいえない、キャンプと言った方がいいような共同体を作って谷に住んでいる。その谷の採掘権を狙う富豪のラフード。ラフードはその近辺で放水を使って山を崩し、効率的に金採取を行っている(すごい環境破壊)。だから手掘りの村が邪魔で、手下を使ってキャンプを荒らし、追い出そうとする。

村人のひとりハル・バレットは町へ買い出しに出かけ、手下どもに暴行される。そこへ葦毛の馬に乗った不思議な男があらわれ、暴漢どもを一人で叩きのめす。バレットは男を連れて帰り宿を提供。男は牧師(プリーチャー)であることがわかる。

ラフードとプリーチャーの交渉で、村人たちは一人あたり1000ドルの立ち退き料を貰って出ていくか、抵抗するかの選択を迫られる。夜、焚火の前に集まって鳩首会議。1000ドル貰えば十分、さっさと出て行こうという者たちに、ハル・バレットが反論する。

I came here to raise my family. This is my home. this is my dream. I've sunk roots here.
俺はここで家庭を持つつもりでやってきた。ここは俺の家、俺の夢だ。ここに根を下ろしてる。

アメリカ人のアイデンティティそのものですね。さらにバレットの長セリフが続きます。

we sell out now, what price do we put on our dignity next time? Two thousand dollars? Less? Or just the best offer?
これをカネと引き換えに手放すというなら、次は自分の尊厳にいくらの値をつけるんだ?2000ドル?もっと安いか?とりあえず貰えるだけでいいのか?

うーん、まるでモリアーティの文章を読んでいるような台詞(笑) バレットは自由・独立・尊厳をもって悪に立ち向かいたいと思っている。ただしその勇気には力の裏付けが足りないんです。

村人たちは結局バレットに賛成、ラフードと対決することに決める。しかしその心の底には、プリーチャーさえいれば安心という気持ちがあったのかもしれない。翌朝、プリーチャーは小屋から消えています。がっかりする村人を前に、バレットはこんな嘘をつきます。

before he left, he said that if anything happened, he hoped that we'd do like he'd do if he was here.
プリーチャーは出ていく前に”何かあったら、自分がするのと同じようにお前たちも行動してほしい”と言っていたよ。

この場面のバレットには、彼自身も不安に思っているのがありありで、説得力がありません。村人たちもぜんぜん元気づけられてない。だけどこの演出こそ監督の意図でしょう。ハルも村人たちも、運命に翻弄される裸の人間そのものです。その彼らに、超人的な力を持ったプリーチャーと同じように行動しろ、というのは荷が重い。だがそれでも運命に立ち向かう勇気を、しょぼしょぼでも持ち続けようとしたバレット。やはり彼こそがヒーローなのです。

村人たちが砂金堀りであることのポイントは、彼らは農民でなく、真の共同体を作ってはいないこと。一人ひとりが文字通りの山師であり、それぞれのツキで掘り当てたものはその人間だけのもの。シェアするということはしない。いわば、原始状態の人間です。

しかし考えてみれば、人生の選択に迫られるとき、人間はみな一人ではないか。

さて、このあとプリーチャーは武装して村へ戻ってくる。同時に、金塊をみつけた村人スパイダーが浮かれて町へでかけ、保安官に殺されてしまう。悪の保安官からプリーチャーへの挑戦状です。その死体の前でプリーチャーが村人に団結を説く。一方、自分を慕う少女には、愛には信頼が不可欠と諭します。

要するに、原始状態で混乱と迷いの中にある人間たちにプリーチャーが教えるのは「信頼と協力と友愛」であるわけです。この姿をイエスと重ね合わすことも可能でしょう。

そのほかにもプリーチャーの正体はいろいろな解釈ができると思います。「蒼ざめた馬」に乗っていることで、死の影がつきまとっていることも確か。いずれにせよこの世のものならぬ存在なようです。そしてプリーチャーの旧敵ストックバーン保安官の描き方も非現実的なまでに様式的で、こっちもやはり現世のものじゃない感触です。

この話でのプリーチャーの役割は、運命と人間の関わり合いを加速する触媒と思われます。本当のドラマはハル・バレット達人間の中で起こっている。この映画は二重構造で、プリーチャーと保安官の超人的な二勢力の争いと、それに触発される人間の戦いからなっているわけです。表層構造の部分、プリーチャーのガンファイトは極端に様式化された西部劇フォーマットで、アニメを見ているような非現実感あり。そちらに目を奪われるか、奥にある人間の成長物語に惹かれるか。それによって話の受け止め方が変わってくると思います。

(おや、これはラリー・コーエンの『Q』の感想と似てますね。)

プリーチャーが他の人間と唯一フィジカルに関わるのが、ハル・バレットの婚約者サラとの関係。それもハルがサラにプロポーズした同じ日の夕暮れに(ヒドイ)。保安官との対決が翌日に迫り、死の予兆が重く垂れこめる山の向こうから、プリーチャーを呼ばわる不気味な声が響くという象徴的な場面ですが・・・。

翌朝、プリーチャーが自分の小屋から出てくるとバレットが野牛撃ちのライフルを持って待ち構えている。おお、ここでモリアーティがイーストウッドを襲うのか!と期待しましたが違った(笑) 寝取られ男のバレットは怒りを押し殺して、あるいは怒りを蛮勇に変えて、プリーチャーと一緒に町へ戦いに行くつもりなのです。だが神(悪魔?)どうしの戦いに人間を連れて行くわけにはいかない。プリーチャーは途中でバレットをだまして彼の馬を逃がし、町へついてこられないようにする。

町に着いたプリーチャーは、保安官とその6人の助手(荒野の七悪人だ!)を一人ずつ片づけていく。この場面は西部劇好きには楽しそう。

そして戦いが終わるころ、徒歩でやっと辿りついたバレットが、物陰からプリーチャーを狙っていたラフードを自分の銃で撃ち殺す。ラストシーンの会話はごく短い。

プリーチャー "Long walk."   歩いたな。
バレット    "Yup."       ああ。

最後のバレットの台詞を、イーストウッド監督はモリアーティに自分で書いてくれと言ったそうで、彼は考えたあげくこれだけの言葉にしたそうです。バレットは歩いているうちにいろんなことを考えたでしょう。プリーチャーに対する怒り、それが自分に与えた力。ラフードを倒せるか。サラを許せるか。もうすべてに答えが出たので、語ることもない。去っていくプリーチャーを笑顔で見送るだけ。

モリアーティの自伝 The Gift of Stern Angels より。

(p. 105)  ミスタ・イーストウッドは、最後のセリフを自分で書くよう俺に言った。自分の選択が正しかったかどうか俺はずっと考えてきたが、今はもう迷いはない。そう、"Yup"の一言だ。

ここの俺はゲイリー・クーパーなのさ。『真昼の決闘』のゲイリー・クーパー。俺にはもう、プリーチャーは必要ないってことだ。グレイス・ケリーには去られようとも、悪漢どもには自分ひとりで立ち向かえるぜ。

なんだか文体が変なのは、ここの原文が西部劇口調になってるせいです(笑)

自伝のほかの部分では、モリアーティはイーストウッド監督のことを評判どおりの「シンプル、明快、実際的、勤勉かつ非常に自制的な」人物であったと書いています。ただし司法省との戦いでは、イーストウッドは彼を支持してくれなかった。電話をかけて支援を頼み、自分の主張をファクスで送ったのに、「断りの返事すらなかった」と書かれています。ハル・バレットは実生活においても、プリーチャーの手助けなしに孤高の戦いに挑まなければならなかったわけです。ゲイリー・クーパーというよりドン・キホーテに見えるかもしれないけれど。でもそう言うと、「ゴリアテに挑むダビデと言ってくれ」とストーンに言い返されそうですね(笑)