『ホロコースト』 ディスク4 ツィクロンB

 
ヘウムノの場面で「ドイツの化学の力を借りる」と言っていたエリック・ドルフが、民間の会社の研究所を訪ねてきています。今回の任務はツィクロンBの調達です。

前の幕で涙を流したエリックは、この場面では泣きやんだばかりの子供のような表情をしています(時系列では数か月後の話なんですが)。傷つきやすそうな、優しげな様子で、毒ガスの調達という恐ろしい仕事をするところがどうにも倒錯した感じを与えます。迎える技術者の方も、丁重かつ控えめな物腰です。親衛隊の将校が平服で殺虫剤の問い合わせにやってくる理由を察しているらしい。この二人のあいだで、ためらいがちな探り合いが展開されます。

[ドルフ]    これの効果は実証済み?
[技術者]   害虫駆除に広く使われておりますよ、鼠、シラミ・・・
[ドルフ]    その他に試したことは?その・・・
[技術者]   人間に?
[ドルフ]    ええ、まあ、犯罪者とか、不治の病人とか・・・(遠慮がちに微笑む)
[技術者]   その辺のところはどうも・・・私どもは化学者にすぎませんから。
[ドルフ]    非公式に聞いたところでは、被験者は苦しんで死ぬとか。
[技術者]   私が申しあげられるのは、こちらは燻蒸用としては第一級の製品だということ。それに一酸化炭素と違って機械を痛めません。
[ドルフ]    (相手の言葉をとらえて微笑む)おや、なぜ一酸化炭素とおっしゃる?
[技術者]   (はぐらかすように微笑み返して)噂ですよ。

最後の3行の解説を・・・ 「ヘウムノ」の項で少し触れましたが、この当時はラインハルト作戦(1941年から1943年)というものが進行中でした。ポーランドの3か所に絶滅収容所が建設され、一酸化炭素を使ったガス室でおもにゲットーの住人が殺害されたのです。時期的にはアインザッツグルッペンの銃殺隊とアウシュビッツ-ビルケナウ絶滅収容所の中間。一般的にはあまり知られていませんが、犠牲者の数はアウシュビッツ以上と言われています。このすこし後の場面でも、ドルフがラインハルト作戦に関わっていると示す台詞があります。

ドルフは注文を出すと言い、出荷に指定をつけます。アウシュビッツのヘース中佐へ送ってくれ。書類には「燻蒸用限定」と記すこと。


次の場面では、RSHA長官室で上司を待ちながら、ドルフとヘースが会話しています。ヘースがシャワー室に偽装したガス室の写真を見せ、ツィクロンBの調達を話題にします。ドルフが「量がまとまれば価格も安く」というと、ヘースが「需要にはこと欠かない」と絶滅収容所の名前を羅列してみせます。その途中でドルフは耐えられなくなったかのように目を伏せる。

ハイドリヒの死で後ろ盾を失った彼は、ときどきこういった気の弱さを露呈するようになります。親衛隊という過酷な競争社会で、それは同僚や新しい上司によって敏感に嗅ぎつけられ、格好の餌食にされていくのです。


ツィクロンBについては以前「時代背景3/3」の項目でこんな解説をつけました。

【この青酸化合物系殺虫剤の製造販売には、IGファルベンとは別のドイツ企業が主として関わっていました。ドルフが訪ねたと思われるメーカーに出資していた化学会社です。現在はもう吸収合併されて当時と違う社名になっていますが、そこのHPに会社の歴史の調査結果が載っています。軍需産業に不可欠なある素材を生産していたために、国策に深く組み込まれていったこと。ユダヤ人から接収された、あるいは収容所から集められた貴金属(金歯や眼鏡)の精錬を行っていたこと、ツィクロンBの特殊用途に、少なくとも子会社の責任者は気づいていたと考えられることなど・・・・・ 】

ネット上にはツィクロンBをIGファルベン製と誤解しているサイトがけっこうあります。また、最初から化学兵器として開発されたというのも誤解であります(L&Oでマッコイかカッターの台詞にそれっぽいのがある)。発明者のフリッツ・ハーバーはたしかにマスタードガスの開発者ですが、ツィクロンBそのものは上記の化学者の台詞の通り、もともと殺虫剤として広く使われていたのです。ドルフが書類に燻蒸用と書けと言っているように、SSはその建前を押し通し、ガス室にも delousing (害虫駆除)と表示する念の入れようでした。
 
メーカーの側もある程度は特殊用途を察していたらしい、というのは、ドラマの描写とも一致していますね。ただ絶滅収容所での使用量は一般の消費と比べるとそれほど大量ではなく、一見して異常がわかるほどではなかったらしい。

無駄話になりますが、なぜ私がこの辺にやたら詳しいかというと、実はこの「IGファルベンとは別の企業」の日本法人で働いていたことがあるのです。当時は社名も変わる前で、オリジナルの社章もまだ持ってます。その図柄が表わすそもそもの社業が社名の由来であり、青酸を扱う技術を持っていた理由でもあります。